仏法との出会い
このblogでも何度でもいっていますが、葵は特定の宗教をもちません。
けれども、仏教に関しては15歳のときから今日まで、不思議なご縁と葵の人生のテーマ上の関係から、毎日少しづつですが、勉強させていただいてます。
中学生の頃、葵にも、生きることに対して執着がなくなった時期がありました。
生きることに対して執着がなくなったといっても、仏教のとくところの無欲とは全く正反対の境地。
他人にどれだけ迷惑がかかったとしても自分のしたいことをする。
それで殺されてもかまわない、というかなり破滅的な考え方。
もしかしたら、当時の自分は、かなり自暴自棄だったのかもしれません。
あるとき、いつものように父の部屋に忍び込こんだとき、父の本棚にいくつかの宗教書があることに気がつきました。
そのときに、一番最初に自分の目に留まったのが故丹波哲郎の『丹波哲郎の死者の書』。
不思議な感じの表紙と、世間知らずの中学生にとって魅力的なタイトル。すぐに手にとって読んだのでした。
このようにまず葵の場合、宗教からではなく、まず、オカルトから入っていったのです。
読んでいるうちに、葵は重大なことに気がつきました。
ああ、このままでは自分は地獄に落ちてしまうと(今となっては、軽い笑い話ですみますが、当時の葵にしてみたら、一大事でした)。
この世で、苦しんで、苦しみぬいてその結果、死んでも無にはならない、それどころか今のままでは葵は地獄に落ちてしまう...。
死んでからも苦しむなんて、いやだ。
それ以来、葵は死んでから地獄に落ちないためにはどうすればいいのだろうということを真剣に考えるようになったのです。
一方で、丹波哲郎の本や他の宗教書を読み漁り、その内容と矛盾点を考えます。
その結果、一番自分にとって「理にかなっている」考え方が書かれていた本が仏教関係の本だったのです。
そして、そのような本を見つけたことによって当分自分の生きる指針を見つけたような気になって、葵のこころはいままでより、より価値の高いものを目指すようになったのです。
その年の夏休み、父に連れて行かれた京都。 幾つかの寺院を、“観光”しましたが、そのときに訪れた寺院のひとつ、建仁寺は、私にいくらかの安らぎを与えてくれました。
それを契機に葵は仏教書を濫読するようになりました。
今は、とりわけ、日本文化、日本人の心というものに関心がある以上、また、自分を取り巻く宗教的環境の疑問点から、今までより余計に仏教書を読む傾向にあります。
ましては、私が卒業する際に取り上げたテーマは仏教民俗学的な分野。これは、葵が最初から狙っていたわけではなく、成り行き上、そうなってしまっただけなのですが。
そして、最近では、神道の本をはじめとしてさまざまな宗教に関する本を読み漁るようにもなりましたが、やはりその一番基本にあるのは、中学生の葵に仏教をして“合理的である”と思わせた何かを探し続けているのでしょう。
今思えば、かつての葵はずいぶん、自分と家族、他人を傷つけてしまいました。そのことは今、悔やんでも悔やみきれないことです。
ですが、少しでも一生懸命自分の人生を生きること、また、近い将来で罪滅ぼしをしようと考えています。
だから、そのために、今は自分自身を作り上げる期間。
自分を作り上げることほど、大変で苦しいものはないかもしれません。なぜなら、妥協ができないから。
ですが、葵はなんとしても“望むもの”になりたいのです。それが何かは今は秘密ですが。
今宵の月に魅せられて、今日はちょっとしゃべりすぎました(笑)。
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