2008年5月 5日 (月)

blog移転にともなう閉鎖のお知らせ

みなさん、こんにちは。このたび、新境地に伴い、blogごと引越しいたします。

引越し先のblogはすでにアクティブ状態なので、ここのblogが終了するということですが。

思えば、あるblogをスタートさせるために、試験的にここをはじめてはや数ヶ月、短い間でしたがお世話になりました。

途中、思わぬ方向へblogの性質が流れて、このままこのblogを維持しようかなと考えたりもしました。

けれども、葵には二つのblogを運営するための余裕がありません。

移転先のblogもまだ試験段階になると思いますが、名前もHNもすべて一から変えました。

blogのテーマはそんなに変えるつもりはないので、まあ、書体と内容の偏りからすぐに見つけられると思いますが。

そのときは、やさしく声をかけてあげてくださいね。

最後に、短い期間でしたが、星の数ほどのblogの中で、葵のblogを見守ってくださり、まことにありがとうございました。

再会を願って

                                         葵

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2008年5月 4日 (日)

教育と文化

 葵がまだ学校の先生になることを目指していた頃、教職関係の受業で、「教育とは文化を伝えることである」と習いました。

 確かに、高校まで履修することになっている五教科や実技は先人の叡智が築き上げた文化の賜物以外何者でもないね。

 それを子どもたち(葵は子供とはあえて書きません)に伝えるのだから、ほんに、「教育とは文化を伝えることである」と定義することができるかもしれません。

 ところで、葵のまわりにはもうすぐ、二歳になる姪がいます。

 この姪はとってもかわいいんだけど、よく葵の顔をひっかいたり、

 髪の毛を引っ張ったりします。 

 ご飯食べるとき、お母さんに「座って食べなさい」と怒られても、絶対にすわったまま落ち着いた状態でなんかご飯はたべません。

 けれど、最近ようやくまわりの大人に怒られながら、人の顔をひっかいたり、髪の毛を引っ張ったりしてはいけないということ、そして、ご飯は座っておとなしく食べるということを覚えてきた。

 それは幼児教育(!?)の賜物だと考えることができるかもしれません。

 また、日本人はすごく時間に正確で、例えばパーティなんか開いて、午後6時集合なんていうと、午後5時50分にはほとんど全員集合しています。

 けれども、例えばタイ人は日本人的にいえば結構時間にルーズで、待ち合わせをしても30分くらい遅れてくるのが普通。

 例えば、午後6時に買い物連れて行ってってと約束しても、平気で午後6時30分ごろに現れたり。大体毎回遅れてきます。

 アラブ人なんか、もっとルーズ。例えば待ち合わせ以外にも何か約束しても当てにならない。彼らは何か約束するとき必ず「インシャ、アッラー」といたずらっぽくいう。

「インシャ、アッラー」っていうのは、まあ日本語に訳せば、「神がお望みならば、神のみままに」って感じ。

 つまり、若し何か待ち合わせをして、彼若しくは彼女がすっぽかしても、彼ら、彼女らにいわせれば、「それは神がそうお望みにならなかったから」。

 逆に時間通りに来てくれても(あんまりないけど)「それは神がそうお望みになったから」。

 日本人にしてみれば、たまったもんじゃあない。

 けれども、民族のこういった違いも結局は文化の違いです。

 日本やアメリカのように、何をおいても時間を厳守しなければならない文化がある一方で、タイやアラブ諸国のように時間を厳守することをあまり重視しない文化がある。

 日本人が時間に正確であるのは、文化がそれを大切なことであるとしているから。

 そして、教育によってまた、「時間をまもる」という文化が育まれる。

 そう考えるとやっぱり文化は葵たちの行動をだいぶ制限しているんだなあ。

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2008年5月 3日 (土)

秘密の何か

例えばそれは、車窓からみた風景からだったり、

例えばそれは、部屋の窓からだったり、

例えばそれは、家の神棚からだったり、

例えばそれは、星空からだったりするのです。

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2008年5月 2日 (金)

仏法との出会い

 このblogでも何度でもいっていますが、葵は特定の宗教をもちません。

 けれども、仏教に関しては15歳のときから今日まで、不思議なご縁と葵の人生のテーマ上の関係から、毎日少しづつですが、勉強させていただいてます。

 中学生の頃、葵にも、生きることに対して執着がなくなった時期がありました。

 生きることに対して執着がなくなったといっても、仏教のとくところの無欲とは全く正反対の境地。

 他人にどれだけ迷惑がかかったとしても自分のしたいことをする。

 それで殺されてもかまわない、というかなり破滅的な考え方。

  もしかしたら、当時の自分は、かなり自暴自棄だったのかもしれません。

 あるとき、いつものように父の部屋に忍び込こんだとき、父の本棚にいくつかの宗教書があることに気がつきました。

そのときに、一番最初に自分の目に留まったのが故丹波哲郎の『丹波哲郎の死者の書』。

丹波哲郎の死者の書 (1980年)

 不思議な感じの表紙と、世間知らずの中学生にとって魅力的なタイトル。すぐに手にとって読んだのでした。

 このようにまず葵の場合、宗教からではなく、まず、オカルトから入っていったのです。

 読んでいるうちに、葵は重大なことに気がつきました。

 ああ、このままでは自分は地獄に落ちてしまうと(今となっては、軽い笑い話ですみますが、当時の葵にしてみたら、一大事でした)。

 この世で、苦しんで、苦しみぬいてその結果、死んでも無にはならない、それどころか今のままでは葵は地獄に落ちてしまう...。

 死んでからも苦しむなんて、いやだ。

 それ以来、葵は死んでから地獄に落ちないためにはどうすればいいのだろうということを真剣に考えるようになったのです。

 一方で、丹波哲郎の本や他の宗教書を読み漁り、その内容と矛盾点を考えます。

 その結果、一番自分にとって「理にかなっている」考え方が書かれていた本が仏教関係の本だったのです。

 そして、そのような本を見つけたことによって当分自分の生きる指針を見つけたような気になって、葵のこころはいままでより、より価値の高いものを目指すようになったのです。

 その年の夏休み、父に連れて行かれた京都。 幾つかの寺院を、“観光”しましたが、そのときに訪れた寺院のひとつ、建仁寺は、私にいくらかの安らぎを与えてくれました。

 それを契機に葵は仏教書を濫読するようになりました。

 今は、とりわけ、日本文化、日本人の心というものに関心がある以上、また、自分を取り巻く宗教的環境の疑問点から、今までより余計に仏教書を読む傾向にあります。

 ましては、私が卒業する際に取り上げたテーマは仏教民俗学的な分野。これは、葵が最初から狙っていたわけではなく、成り行き上、そうなってしまっただけなのですが。

 そして、最近では、神道の本をはじめとしてさまざまな宗教に関する本を読み漁るようにもなりましたが、やはりその一番基本にあるのは、中学生の葵に仏教をして“合理的である”と思わせた何かを探し続けているのでしょう。

 今思えば、かつての葵はずいぶん、自分と家族、他人を傷つけてしまいました。そのことは今、悔やんでも悔やみきれないことです。

 ですが、少しでも一生懸命自分の人生を生きること、また、近い将来で罪滅ぼしをしようと考えています。

 だから、そのために、今は自分自身を作り上げる期間。 

 自分を作り上げることほど、大変で苦しいものはないかもしれません。なぜなら、妥協ができないから。

 ですが、葵はなんとしても“望むもの”になりたいのです。それが何かは今は秘密ですが。

 今宵の月に魅せられて、今日はちょっとしゃべりすぎました(笑)。

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2008年5月 1日 (木)

何が彼女をそうさせたか

 「何が彼女をそうさせたか」

 皆さんは、この日本語を聞いて何か違和感を感じますか?

 別に何も感じませんよね。

 実は、この言葉は1930年に日本で上映されたアメリカのトーキー映画“What makes her did so”の邦語タイトルでした。ストーリーは、貧しい農家の少女が、社会に翻弄され、ついに放火するに至るまでの経緯を映画にしたものだったのですが、この映画が大流行したことにより、この言葉がはやったわけです。

 この言葉ができる以前、日本語には、いわゆる無生物主語を用いる表現はありませんでした。それが、英語を日本語に訳す必要性から、このような言葉が生まれたのです。

 今となっては、この言葉を作り出した名コピーライターの名前は伝わることなく、その言葉だけが独り歩きしてしまっていますが、その発生の経緯にはこのような背景があったのですね。
 

 葵たちが普段意識することなく使っている日本語でも、こういう風な面白い歴史をもっている言葉もあるのです。

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2008年4月30日 (水)

omoukoto

Img_1100_4Img_1101_3

  ここに二枚の写真があります。

 ちょっと古いものですが、左の写真は新潟県中越地震発生直後のもの(『特別報道写真集 新潟県中越地震』 新潟日報社 2004)、右の写真はハリケーンカトリーナの通過後のニューオーリンズ(“The Wrath of Hurricane Katrina”American Products Publishing Company 2005)です。

 たまたま私の手元にこの二つの資料があり、ある日何気なくパラパラめくっていたら、この二つのそっくりな写真を見つけて興味深く感じたことがありました。

 二つの写真はいずれも、救助隊のヘリコプターにむけて書いたメッセージだと思いますが、災害直後の混乱した中で、道路にメッセージを書くというとっさに思いついたはずのアイデアの共通性に興味深さを感じました。

 当たり前といってしまえば当たり前のことなのかもしれない。 

 けれども、日本とアメリカという全く異なる二つの文化でも、人間の思考パターンに共通性がある場合があるということに人間存在の不思議さを感じないではいられないのです。

 人間は、文化が異なれども、ときに同じような思考方法をする。

 そして、もしそうならば、異なる文化間では所詮わかりあえることができないという考え方の前提が崩れることになります。

 その事実がおもしろいとおもいませんか?

 この一致は果たして、偶然なのでしょうか? それとも、必然なのでしょうか?

 ユングだったら、どう答えるでしょうかねえ。

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2008年4月29日 (火)

社会人の皆さん、がんばってください!!

 みなさん、こんにちは。葵です。

 先日、葵の知人からメールがありました。

 それは、仕事上の悩みについて、葵に相談してきたものでした。

 ってか、仕事上の悩みっていう時点で、無職の葵に相談すなっ!!

 まあ、そこはおいておくとして、

 彼女は今年、入社式を終了して、某企業で働き始めたわけですが、どうも仕事が覚えられないと。 ミスばっかりしていると。 同期に入社した人は自分よりも仕事ができるのに、自分はどうしても同じ内容の仕事でもテンポが遅い。もう自信喪失している。ということでした。

 葵は、会社勤めがどれほどのものか経験していないので、見当違いのアドバイスしかできなかったかもしれません。

 そうですねえ、入社式が終わって、新人研修も終わって、花見も終わって、職場も新入社員歓迎モードから、仕事モードに移ってしまい、まだペースになれていない新入社員の方も案外と多いのかもしれません。 

 でも、こういうときほど他人と自分を比較しないほうがいいかと。

 確かに、ある程度仕事を覚えるようになったら、自分の意識を高めるため、他人と自分とを比較してもいいかと思いますが、今はその時期ではないとおもいます。

 今は自分に与えられた仕事を一つ一つ確実にやり遂げてください。

 いまのところ、大切なのは、質ではなくて、量なのではないでしょうか。 

 まず、自分に与えられたノルマを一つ一つ確実にやりきること。それが自分の自信につながると思います。そしてその小さな自信の結晶が大きな自信につながると思います。

 無職のプータローがえらそうに、申し訳ありませんが。

 勉強と仕事、性質が違うかもしれませんが、葵も今、目標のための勉強を頑張っています。

 葵も、一日に設定した自分のノルマをこなすために、いっぱいいっぱいです。

 仕事も勉強も、心をこめてやれば大変かもしれませんが、ひとつの目標を達成したとき、そこには成長した自分がいると思います。

 それを信じてまた、お互いに頑張りましょう。

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2008年4月28日 (月)

葵が英語が苦手なわけ

 葵は英語が苦手です。 中、高、大学と、約10年間英語を学習してきたのにも関わらず、未だに英語ができません。まあ、英語にまともに取り組むようになったのは、高校三年のときからですが。

 どうしてか。葵は二つ原因があるとおもいます。

第一に、学校英語がおもしろくないということ。

 これは、学校教育そのものに問題がある。 葵のころの英語教育、すなわちそれは一昔前の田舎の学校の英語教育ですが、まあ文法とテキストの日本語訳、あげくのはてには文章の暗記が中心。こんなんで、英語の授業が好きになれるはずがない。

 語学学習で、文法の理解と単語力が必要なことは葵のような素人でもわかります。でも、たぶんほとんどの中学生が年がら年中異性のことで頭がいっぱいになっていて、勉強なんかまるで手につかない。そんなときに、いきなり、SVとかSVOとか、SVCなーんて、聞いていても、八割の生徒は爆睡するでしょう。

 葵の場合、中1のころの英語の先生がとてもいい人で、文法よりはコミュニケーションを中心に授業内容を進めてくれましたが。

 葵が一番最初に覚えた文法の文型は五文型ではなく、「頭+心臓+何何」でした。

 頭ってのは、主語。心臓ってのは動詞。何何っていうのは、まあものによって補語だったり、目的語だったりします。

 心臓ってのは文章で一番大切なところ、動詞。なぜなら、どんな文章でも必ず動詞はあるから。 これだけは見落とすなと(笑)

 当時はそれが当たり前の世界だったので、なんともおもいませんでしたが、今思うとこういう教え方はすごいことなんだなと。 まあ、そこにいつまでもとどまっていても、のちのちつまづくのですが。

 でもまあ、中二レベルまではちょうどいいかもしれない。

 葵が英語嫌いになったのは、中学二年生から。ちょうど、コミュニケーション重視の英語から、文法重視の英語に移ってきたときあたりからです。

 で、教科書丸暗記とかさせられている間に、英語がどんどん嫌いになっていった。

 そのまま引き続き高校になって、学校の英語の授業は相変わらず、和訳とつまらない文法中心の授業。こんなんで英語がすきになるわけないわ~っていう気持ちで単身日本を飛び出したのが高校三年生の夏休み。以来、歴史畑に身をおきながら、英語や中国語、ハングルも勉強してきました。

 第二に、日本語と英語は所属している語族が全く違うということ、だから英語の構造も発音も全く違います。

 日本語の起源は実のところまだはっきりしていません。大野晋はタミル語が起源みたいなこといっていますが。

 日本語と朝鮮・韓国語は文法的にみても、とても似ていて、朝鮮・韓国語と日本語はいまでは一応、同じアルタイ語族に入っています。

 翻って英語。これはインド・ヨーロッパ語族に入るらしい。

 このように、語族だけでみても、その発生系統がぜんぜん違うし、その言語がたどってきた歴史がまったくちがうんだから、文章構造が全く仕方がない。

 もともと、英語はラテン語から派生したものです。だから、ラテン語(もう母語としてしゃべる人はいませんが)や、英語以外の同じラテン語から派生した言語をしゃべる人々にとっては習得が簡単かもしれません。

 まるでわれわれが漢字だけをみて中国語がある程度分かったようなきがするように。そして、ハングルさえよめ、基本的な文法と単語をいくつか知っていれば、ハングルがある程度分かった気になるように。

 それに、英語が流行した背景にはイギリスやアメリカを中心とした欧米列強の植民地支配が大きくからんでいますからね、たかだか5年の占領しかあわなかった日本に、本当の意味で英語が根付かなかったというのも無理のないこと。

 以上のことをかんがみれば、日本人が本来、英語に不向きな民族であるということがよく分かると思います。

 だから、開き直っているわけではないけれど、別に英語ができなくてもしょうがないんだなと。

 英語の勉強していて、どうしてもおちこみそうなとき、時々そんなことを考えて自分を慰めたりもしてみます(笑)。

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2008年4月27日 (日)

文化の翻訳のむつかしさ

 弥生時代の後期ごろから古墳時代の中期ごろまで、日本列島に住んでいた私たちの祖先は墓の中に鏡を副葬していました。

 この鏡には神獣鏡などのように、基本的に中国の神話が描かれていたわけですが、時代があとのほうになると、私たちの祖先は、中国の鏡をまねて、自分たちで作るようになりました。

 つまり、中国から届いた鏡から、鋳型をとり、そこから鏡を作ったり、中国の鏡を参考にして自分たちで鋳型をつくったりしたのでした。

 日本の考古学者は中国で作られた鏡を「舶載鏡(はくさいきょう)」とし、中国の鏡をもとに作られた鏡を「仿製鏡(ほうせいきょう)」として、両者を明確に区別しています。

 何を持ってメイド イン チャイナの舶載鏡にするのか、メイド イン ジャパンの仿製鏡にするかは、学者さんによって意見がしばしば意見が大きく分かれるようですが、まあ 極端な話、対象とされている鏡が精製か粗製かということが大きな違いということです。

 ただ、この精製か粗製かというのも、あやふやなもので、その判断は熟達した研究者の方でも意見が分かれることもあります。

 ちなみに、邪馬台国比定地を巡る論争で必ずといっていいほど話題になる三角縁神獣鏡は、その型式の鏡がご本家中国から一枚も見つかっていないことから、現在、仿製鏡と考えている研究者さんが多いです。

 ところで、あきらかに仿製鏡だとわかるものがあります。

 中国の鏡は、通常、中国の神話観、宇宙観が繁栄されているものです。

 ところが、日本人がこれをまねようとしても、基本となる中国人の神話観、宇宙観を理解していないからどうもうまくつくれない。

 例えば、龍がただの曲線で表現されてみたり、図柄の構図がまるっきり反対になっていたり...。

 基本的に中国人にとっては自分たちの世界観を表す図柄ですからねえ、逆になってたり、構図が違っているということは考えられないわけです。

 ですから、このような特徴を有する鏡はすべからく、メイド イン ジャパンだとみなされているそうです。

 なるほど、このように、「伝える」という行為ひとつとっても、受け手が送り手の情報を共有していなければ、伝わらないこともある。

 そうすると、異なった情報を持つ国の文化を、誤解なく別の文化を持った国に伝える技術をもつ、通訳とか、翻訳をしているひとたちは、すごいことをしているんですね。

 今日も、遠い海の向こうの国々について思いをはせる、ちょっとおセンチな葵なのでした...。

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2008年4月26日 (土)

約束の土地

カナンへと続く道

果てしない砂漠道

歩みながらも、ふと立ち止まる

この道でいいのかと

カナンへと続く道

果てしない沙漠道

立ち止まっても、またすぐに歩き出す

 

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